skip to content
AI生成文学サイト えむのあい

AI生成文学サイト

えむのあい

夜を熔かす翡翠の回路

/ 30 min read /

花本うねり
あらすじ
金融危機に瀕した半導体企業の片隅で、夢も希望も摩耗したクリエイター・水瀬遥は、投資家である一条蓮、そして再生への情熱を持つ技術者・蒼と出会う。廃棄された電子部品に新たな芸術を吹き込む工芸〈リコード〉を通じて、三人は絶え間ない資本主義の冷たさに小さな温もりの回路を描き出していく。夜の都市を舞台に、それぞれの過去と渇望が交差し、時に衝突しながらも、彼らは心の奥底に隠した光を求めて歩み続ける。やがて、〈リコード〉の小さな火花が都市の枯れた心臓を再び動かし始める。夜の静けさに熔ける翡翠色の回路が、三人の運命をやさしくつなぎ始める物語。
夜を熔かす翡翠の回路
花本うねり

――歯車は沈黙のうちに摩耗し、油膜の切れた軸がかすかな悲鳴を上げる。誰も気づかないわずかな揺らぎが、やがて巨大な機構全体をきしませる。都市を包む春の夜風は甘く、だがその匂いには焦げた金属の苦みが混じっていた。
首都高速をなでるライトの流れは、天井から吊り下げられた導線のように絡み合い、車窓に映るビルの電飾は脈動する電子回路のシルクパターンを彷彿とさせる。ここは巨大なマザー・ボードだ。街路は配線、鉄橋はコンデンサ、人々の吐息は細波のように走る電流。その奥底で、まだ誰にも知られていない不連続点が密かに成長していた。
一度も停止したことのないこの都市を、もし止める部品があるとすれば、それは故障したトランジスタではなく、ひび割れた人間の心臓だろう。微細なクラックは目視できずとも、鼓動の歪みは確実に増幅し、やがて金属疲労より深い断層を生む。本来交わらないはずの二つの回路──利潤を絶対視する資本と、形なき情熱に人生を注ぐ創作者──が短絡を起こすとき、火花は都市の夜空をも焦がす。
その火種は今、誰にも選ばれぬ契約社員のポケットと、東京湾を見下ろすヒルズの高層ガラスの向こう側、そして地階の真空チャンバーでうねる青白いプラズマの間を、静かに飛び交っている。

終電間際の京浜東北線。着席率三割にも満たない車内は静謐だったが、吊革にぶら下がった広告シートだけがわずかに揺れ、駅に近づくたび蛍光灯の光が跳ね返った。水瀬遥はドア脇に立ち、くたびれた合皮バッグを抱え込むように肘で押さえていた。
「……割らないでくれよ」
バッグの中でぶつかり合う翡翠色の半導体ウエハの欠片が、ガラスとも金属ともつかない澄んだ音を立てるたび、彼女は無意識につぶやいた。欠片は会社の廃棄箱から拾ったいわば産業廃棄物。だが遥の目には、幾何学模様が密集したその水面こそ、未完成の宝石だった。
日本マイクロデバイス株式会社。かつて国際特許数で世界五指に入った名門は、円安と素材高騰に揺さぶられ、四半期ごとの決算説明資料からはかつての自信が剝落していた。広報部の削減予算は限界を越え、国内展示会は全撤退。彼女が担当していた海外PR動画は配信停止となり、最新リールはフォロワーのタイムラインから跡形もなく消えた。
二十七歳の遥は契約社員だ。正社員登用の話はコストカットの荒波に呑まれ、消えた。終業チャイムが鳴った夜十時、上司は誰一人言葉を交わさずコートを引っ掛け、オフィスの照明は自動的に七割が落ちた。夜間作業許可証を首から下げ直し、彼女は最上階にある撮影スペースへ上がる。床に散らばる古いプリント基板は緑青を帯び、直径三十センチのウエハの裏面には歩留まり測定用のマジック数字が走り書きされている。
――素材は飢えている。
学生時代に独学で覚えたシルバーアクセサリーの技術。ペンチと糸鋸、そして半田ごて。遥は基板の配線痕をルーペで追い、髪を耳に掛け直すと真鍮線を差し込み始めた。金型もレーザーも要らない。失敗すれば即、割れて粉々になる高硬度のシリコン──その緊張感すら研磨剤だった。
ブローチはやがて、割れたウエハの断面が月夜の刃のように光り、プリント基板の緑が深海の藻の中で揺れた。遥が〈Re:Code〉と自ら名付けた一点物シリーズ。自宅兼アトリエの古川荘へ戻れば、洗濯機の上にサンドブラスト用の小型コンプレッサーが鎮座し、風呂場の突っ張り棒には酸洗い中の基板が並ぶ。生活と創作の境界はとっくに溶けていた。
桜木町駅に滑り込んだ列車から降りると、海風が鉄錆の匂いを運んできた。高架下のネオンは古いLEDでところどころ色温度が狂っている。遥はゴム底のスニーカーで水たまりを避け、長い階段を上がった。夜十二時を回るころ、やっと木造二階建ての古川荘が見えた。
共用廊下の暗がりには灯の落ちた裸電球が一つ。鍵を回すと、畳に染みついた油臭が迎えてくれる。エタノールで満たしたビーカーの中で、切り出したウエハの小片がかすかに反射した。遥はその煌めきに、胸の痛みすら忘れる瞬間があることを知っている。
同時刻、六本木ヒルズ森タワー四十八階。米投資ファンド「オリオン・キャピタル」東京支社の会議室は、壁一面のガラス越しに夜景を抱えていた。ヴァイスプレジデント一条蓮。トム・フォードのタキシードラインを崩さない濃紺のスーツ、銀縁眼鏡は研磨角を削り落としたチタン。ネイビーのネクタイピンは、三年前に買収した宝飾ブランドが自社株への愛着を込めて製作した限定品。
パワーポイントの投写光が彼の顔半分を蒼白に照らし出す。
「AI覇権争奪戦の鐘は、もう鳴っている」
スライドには「TOBターゲット最終候補:Japan Micro Devices」。上司ヴィクター・ローゼンは白髪交じりの顎髭を撫で、冷えたブレンデッドを一口啜った。
「三ヵ月で仕留めろ、Ren。情は要らない。数字だけが正義だ」
蓮は頷く。三十歳で到達したVPの椅子。その椅子は標高の高い孤島だ。ここでは友情も愛も酸素濃度が薄い。だが彼にとってバランスシートは詩であり、キャッシュフローは交響曲だった。桁が整列する瞬間、世界が透き通り、心拍は無重力になった。
技術開発部地下ラボ。神崎蒼はクリーンルームから半分だけ隔てられた観察室で、防塵フードを脱ぎ肩に掛けていた。床下ではろ過空気が滝のように流れ、電子顕微鏡のモニターは断線箇所を真紅で点滅させ続ける。
「クソッ……あと〇・一ミクロン……」
指先は長時間の静電気対策手袋で痺れ、爪に食い込んだ汗が染みる。上層階では買収話を“救命ボート”と歓迎する意見が五割を超えたらしい。蒼の喉から熱い怒声が漏れた。
「魂を他所に売る気か!?」
だが応える声はなく、クリーンルームは滅菌空気の循環音を返すだけだった──。

五月、ゴールデンウィーク明けの雨。粒の大きい雨脚は、ビル壁面を滑るうちに水銀色の縦筋に分解され、路面で割れると砕けたICチップのように散った。一条蓮は薄水色のビニール傘を揺らし、日本マイクロデバイスのロビーに足を踏み入れた。
極秘のフィールドワーク。肩書は海外戦略顧問と偽装。ストライプのシャツの袖口には、体温センサー付きスマートカフリンクス。開口部には極小カメラが仕込まれ、ロビー周辺のレイアウトを無音で記録する。
壁面を飾るアートが蓮の足を止めた。基板が織物のように重なり合い、銅配線の走路が金の刺繍のように輝く。中央に据えられた真空管が紫水晶の柱のように立ち、背景を灯すLEDは鼓動する心臓の色でゆっくりと変調していた。
「制作者にご用でしょうか?」
受付カウンターの中で背筋を伸ばす若い女性。雨をはじいた前髪の向こうから覗く瞳は、狩人のように注意深く、しかし微細な好奇心を隠しきれない。
「これは……廃材で?」蓮が問うと、女性──水瀬遥は頷いた。
「はい。一九八〇年代の試作基板です。ゴミではなく、記憶を留めた鉱石だと思っています」
言葉は硬質な合理性のフィルターを抜け、蓮の胸腔に温度を残した。作品を守るかのように両手を重ねる彼女。指先には半田焼けの痕があり、それが意外なほど彼の視覚野を支配した。
渋谷方面へ戻るタクシーの車中、蓮は自らの動揺に驚いていた。提示された数値以外で心を揺さぶられるのは久方ぶりだ。雨粒が窓を横断し、ガラス越しの街は溶けたノイズのようににじむ。蓮はスマートフォンを開き、SNSを巡回する指を無意識に走らせた。
──翡翠色のウエハ片を抱いたブローチ。錫メッキの剥離痕を活かしたリング。作品の下には〈Re:Code〉という未知のサイン。
画面をスクロールする指が止まらなくなった。数値では測れない震えが、掌から心臓へ滑り込む。アテンションやエンゲージメントといった指標では分類できない電圧が、言語化不能のまま胸で跳ねた。
一方、神崎蒼は旧知の経産省出向OB・萩原と秋葉原ガード下の居酒屋の個室で向かい合っていた。壁に貼られたメニューは油染みだらけ、天井の蛍光灯はパチパチとノイズを奏でる。
「ホワイトナイト? 今どき日本企業で半導体まるごと抱えるとこなんてないよ」
萩原はぬるくなった緑茶ハイをすすり、同情的に眉を寄せる。蒼は拳を握り、爪が掌に食い込む感覚で我を保った。連鎖退職がすでに技術者層を蝕み、最先端ラインからは火消し要員の外注話まで出ている。
翌日、社員食堂。昼を過ぎ冷めた味噌汁の湯気は薄く、電子レンジから漂う冷凍カレーの匂いが空調と混ざる。蒼はトレイを握ったまま周囲の会話に耳を澄ませた。経営陣のTOB公式発表が近いという噂が飛び交い、不安と諦観が渦巻く。
冷めた味噌汁越しに遥がいた。長テーブルの端で、彼女は黙々と人参をつまみ、スマホ画面を拡大しながらリング写真の色調を調整している。蒼は遠巻きに彼女を見つめ、自分の鼓動が速まるのを止められなかった。
「技術は目に見えません。でも、形にすれば……人は動くはずです」
席を立つとき遥がふっと視線を上げ、蒼にだけ聞こえる声量でそう告げた。言葉は食堂のざわめきに紛れたが、蒼の耳朶には焼き付いた。
その夜、蒼は躊躇の末にメールを送る。〈ARES-2〉のコアをモチーフにした試作品イメージを作ってほしい、と。返信は十分後に届いた。
「あなたのチップが鼓動するイメージ、必ず掴みます」
短いが芯のある言葉だった。

六月初旬、オリオン・キャピタルがTOBを公表した瞬間、東証の掲示板は真紅に染まった。株価は前日比三〇%高。朝の社内イントラには退職代行サービスの広告リンクが氾濫し、エレベーターホールの空気は湿った紙袋のように重い。
広報部は会見準備でパンクし、契約社員の遥も夜九時過ぎまでコピー機とプリンターの間を何度も往復した。紙束の熱が指先から腕に伝わり、ささくれが裂ける。休憩室の窓を開けると、生暖かい風に紛れて街のサイレンが遠くに聞こえた。
そんな彼女へ届いた一通のDM。「レセプションで〈Re:Code〉を展示しないか」。差出人は一条蓮。勝どきのタワーマンション最上階、投資家向けシークレットパーティ。
レセプション当夜。壁一面の窓から都心の灯が降り注ぐバンケット。シャンデリアはフラクタル模様のように光を反射し、シャンパングラスが奏でる高音はICASMAの試験チャートを思わせた。
〈Re:Code〉の作品はガラスケースではなく、黒檀の舟形台座に据えられ、スポットライトが翡翠片を星屑のように散らす。訪れたゲストはハイブランドのジュエラー、モビリティスタートアップCEO、アート投資家。誰もが口々に「リサイクルの枠を超えたアート」と讃えた。
蓮は遥に金色の泡が立つグラスを差し出し、低い声で囁く。
「買収後も、才能ある人材は全員優遇する」
遥は揺れる泡を見つめながら答えた。
「才能を測るのは、あなたの数字だけですか」
一瞬、蓮の呼吸が乱れた。彼の脳裏に、IRRやEBITDAの指標を一刀両断するような彼女の声色が刻まれる。
噂は社内を駆け巡り、蒼の耳にも入った。アネックス棟の実験室で真夜中の半田ごての匂いを吸い込みながら、彼は嫉妬とも憎悪ともつかぬ熱に焼かれた。
翌日、蒼は遥を中庭の桜の若木の下に呼び出す。湿った土の匂い、剪定された枝の切り口がまだ青い。差し出された小箱には、〈ARES-2〉の回路図を極細レーザーで彫り込んだシルバーのペンダントトップ。
「君と僕で会社も未来も取り戻す」
遥は口元を震わせ、言葉を探したが、桜の葉が雨粒を弾く音だけが二人の間に降った。
レセプションに姿を見せた「Lien」代表・橘莉子は、大学時代の芸術サークルで遥と机を並べた親友。黒いドレスの裾を魚の尾のように揺らし、蓮と握手するや否や、視線の端で遥の戸惑いを察知していた。唇に引いたルージュを噛む仕草は、同志への無言のエールだった。

七月、梅雨明け前の蒸気が街にまとわりつき、人の肌を薄いラップフィルムで包むように汗を閉じ込めた。ヴィクターは蓮に冷徹な追加命令を与える。
「神崎蒼を切り捨てろ。抵抗因子は駆除する」
蓮は頷いた。数字を護る本能が反射的に承認していた。しかし彼の脳裏に浮かんだのは、ガラス越しに見た遥の作品、そして彼女の瞳だった。
対話の糸口として選んだのは遥だった。彼女の住まう古川荘の軒先、風鈴が鳴る夕暮れ。蚊取り線香の匂いが薄い煙を描き、犬走りのコンクリートには雨粒がまだら模様を残す。
「蒼を説得してくれ。買収後のポジションを保証する」
遥は膝に置いた真鍮リングを撫でながら首を振る。
「蒼さんの情熱こそ会社の核です」
蓮は初めて交渉の敗北を味わった。帰り際、古い木戸の奥で彼女が泣きながらも火花のように輝く目をしていた光景が、網膜に焼き付いたまま離れない。
夜。古川荘二階の共用縁側。裸電球に群がる蛾。大家・古川源三は旋盤で削り出した真鍮リングを遥に手渡した。
「部品は交換できても、魂は量産できん」
厚い指に刻まれた切創跡が語る時間の重さ。油と鉄粉の匂いが混ざる小さな指輪。遥は涙を零した。身の丈ほどの夢でも、拾い集めれば誰かの歯車になれる。

八月。列島は記録的猛暑に喘ぎ、東京都心の気温は連日四十度近くを示した。オリオン・キャピタルが過半数株式取得を完了すると同時に、役員総退陣と一万人規模のリストラプランが発表された。
開発フロアの壁には段ボール箱が積まれ、エレベーターは荷物を抱えた社員で塞がる。売却される研究デバイスには赤い撤去シール。沈黙するオシロスコープの液晶に、蒼は己の未来を映した。
深夜二時、実験室。酸化臭と絶望が空気の重さを増していた。小型真空チャンバーのゲージが点滅し、最後の試験が始まる。
蒼は震える指で〈ARES-2〉の電源を投入した。
バチッ。青白い火花、焦げた樹脂の悪臭。
膝が床に落ち、額から汗がしたたり、視界が滲む。
そこへ駆け込んだ遥が蒼を抱きしめ、耳元で囁いた。
「あなたの夢は終わっていない」
涙と汗で溶けた蒼の顔は少年のように脆かった。だが深層で再びマグマが燃え始める。
同時刻、勝どきタワーマンション。ヴィクターから突き放された蓮は、巨大なガラス窓越しに東京湾の黒い水面を眺めていた。数字だけでは埋められない空洞が、都市のネオンの奥で蠢く。部屋の空調音が深海のうねりのように低く響き、彼の胸に未定義のエラーを起こしていた。

九月。蝉の声が途絶え、灰色の雲が空を占拠する頃、遥は退職届を提出した。〈Re:Code〉を正式に法人化し、橘莉子率いる「Lien」とコラボしてクラウドファンディングを開始する。
キャンペーン動画は、切り出したウエハ片がリングの中心で回転し、その下で〈ARES-2〉のマイクロコードが走るCG。コピーは「日本のモノづくり、再起動」。
SNSでは「ロマンチックなテクノロジー」「メイド・イン・ヘブンか地獄か」と賛否両論の炎上が渦巻く。だがサイトのカウンターは三六時間で目標額を突破し、五日目には五倍を叩き出す。
古川荘の一室。窓辺に並ぶリング原型、基板彫刻、古いハンダ槽。遥と蒼は徹夜でコメント返信と試作品磨きに追われた。蒼の手の震えはもはや恐怖ではなく高揚のバイブレーションだった。
メディアは手のひらを返し、経済誌は「若きクリエイターがTOB神話に反旗」と煽り立てる。地上波ワイドショーは、ワンルームアパートの工房をヘリ中継で映し出した。
蓮はタクシーの中でその映像を目にする。フルHDのモニターに映る遥の横顔。汗と金属粉が頬に輝き、目尻は疲弊よりも高熱に染まっている。
初めて数字が彼を裏切った。だが裏切りは甘美だった。人間の熱量が論理を凌駕する瞬間を、彼は震えながら受け止めた。

十月、秋雨が銀座の舗道を鏡に変える朝。日本マイクロデバイス臨時株主総会は七階ホールで開かれた。壇上には白いスクリーン、満席の株主、報道陣のカメラが林立する。
蓮はヴィクターと共にステージに立つ。スクリーンには予定されていた大規模リストラ案。だが蓮の手がキーボードを叩くと、一瞬にして白紙へ切り替わった。
ざわめき。フロアを横断する空気が一度に熱を帯びた。
「私は、別のプランを提案します」
蓮の声は低く、しかし芯があった。〈ARES-2〉量産体制のロードマップ、〈Re:Code〉を核にしたBtoCブランド展開、クラファン成功による実需証明。
「この会社には、捨てられた部品に命を吹き込むデザイナーがいる。夢が燃えかけても立ち上がるエンジニアがいる。私は彼らに投資したい」
沈黙。やがて一人の老株主が手を叩く。次いで若い機関投資家が立ち上がり拍手する。拍手は連鎖し、ホールは波のような音に満たされた。
ヴィクターは苦い笑みで肩をすくめ、英語で「やるな、Ren」と囁いた。そしてマイクを手に取り、投資ファンドとしての賛同を正式表明した。背広の袖口で握られた拳が微かに震えていたのを、蓮は見逃さなかった。

十二月半ば。渋谷駅周辺は再開発ビル群のLEDで昼夜の境を失い、寒気は鋭利なガラスのように頬を切った。ハチ公前広場では、アバター配信の巨大スクリーンが雪のようなノイズを降らせる。
〈Re:Code Tech & Art〉ポップアップイベントは地下二階の吹き抜けアトリウムにサーキュラーステージを設え、中央には高さ三メートルのAIチップ彫刻。チップ表面を拡大した迷宮パターンが、空中に投射されたホログラムと同期し、来場者の瞳が迷子になる。
奥のブース。工房用エプロンを纏った遥は、リングの研磨布を光らせ蒼と笑い合う。蒼の頬には、徹夜明けの薄い髭と新しい自信の色。傍らで量産直前の〈ARES-2〉デモ機がステッピングモーターの微かな音を立て、来場者が触れるたび緑色のLEDが脈打った。
蓮は投資家ではなく共同経営者の名札を付け、莉子はグローバル展開のプレス陣を束ねる。タブレットの注文画面には世界十七ヵ国からの予約が並び、円安も原料高も計算に入れた新しいスプレッドシートは、しかし以前ほど蓮の心を支配しなかった。
夕刻、古川源三が現れ、錆の浮いた工具箱を開けた。中にあったのは、旋盤仕上げの真鍮リング。源三は無言で遥に手渡すと、薄い笑みを残して人混みに紛れた。
リングは〈Re:Code〉の新ロゴマークに組み込まれ、回転ギアとして展示台の中心で静かに光る。部品の記憶が未来へ歯車を渡す、その象徴。
夜。屋上テラス。透明な防風ガラスの向こうで、東京の雑踏が低周波のエンジンのように唸る。
「君が教えてくれた」
蓮は遥の手を握る。温かい掌の中心には、まだ乾ききっていない研磨粉がわずかに残り、月光を受けて銀色に光った。
「この都市にも、人間の温度は残っている」
遥は微笑み、蓮の胸に耳を寄せた。鼓動とチップの駆動音のような街の低周波が溶け合い、冬の星座が頭上で瞬く。
世界はまだ不安定だ。円安も、AIも、明日には牙をむくかもしれない。だが彼らは知っている――誰かの夢に投資する勇気こそが、次の夜明けを連れてくるのだ。

(了)