海霧は夜の湾を乳白色に閉ざし、冷却材のように街路を這った。気温は零度を割り込み、対岸のガントリークレーンは霜に縛られた巨人めいて動かない。新湾岸特区──超高層都市の硝子と鋼は、凍った星座を思わせる光の筋を宿していたが、午前二時一分、その輝きを支えるエネルギーの動脈が断ち切られた。ドローンハイウェイの誘導灯が一斉に落ち、空に浮かぶ青白い軌跡が途絶する。電力が消失した瞬間、音もまた死んだかに見えた。だが沈黙の底から、波止場に係留された自律運搬船の汽笛がひとつ、ひび割れた哀歌のように響き、それが無人の街に不吉な時刻を告げた。
東都電力湾岸原発。中央制御室のホールは、鈍色の金属光沢を帯びたパネルで囲まれている。二十メートル四方の壁面が一瞬で赤い警告灯に染まり、モニタは心臓の鼓動のように脈打った。回転数急降下。蒸気流量エラー。緊急炉停止。数十行の同時多発アラームを前にオペレーターたちは凍りつき、椅子を蹴ってパネルへ駆け寄る者もいた。だが彼らの視線を奪ったのは、巨大スクリーンに唐突に開いた漆黒のウィンドウだ。血のように濃い真紅のフォントが画面を疾走し、都市の生殺与奪を握る宣告を刻む。
〈This is TARTAROS. The Hermes of your atomic fire is chained. Payment: 500,000 NIX. Deadline: 48 hours.〉
その映像は暗号化ストリームで同時に世界の闇サイトへ散布された。だが最も近い距離で愉悦をもって見守る男は、特区中心にそびえるタワーマンション最上階にいた。月光の死角に溶け込む横顔。彼は“プロメテウス”と名乗る。国際ハッカー集団〈タルタロス〉のリーダー。フランス製の羊革グローブでウィスキーグラスを包み、琥珀を傾けながら言葉にならぬ笑みを浮かべた。彼の背後、壁一面を覆う有機ELパネルには、世界各国の取引所におけるNIX暗号通貨のチャートが踊る。ローソク足は垂直に伸び、阿鼻叫喚と歓喜が数字の波形になって跳ねた。
同じ時刻、永田町に隣接する警視庁本庁舎。地下三階のサーバフロアは、フロンの冷気が漂う巨大な洞窟だ。ラックの青白いLEDが無数の目玉のように瞬き、濃紺の背広を着込んだ刑事たちが走り回る。堂島一郎警視は入り口でコートを脱ぎ捨て、声を張り上げた。「非常対策本部を立ち上げる。サイバーは総員招集だ!」 その目は血走り、眉間の皺は深く刻まれている。中央省庁からの圧力を痛覚で感じていた。電力テロは国家の根幹を揺らす。失敗は職を超え、人生を賭す綱渡りを意味する。
それでも堂島は、古いカードでは勝てないと悟っていた。彼が頼ったのは、国家プロジェクトとして産学官が総力を挙げて開発した最新鋭クラウドAI捜査官AMATERAS。演算能力はペタフロップス級、自己学習型予測エンジンを備え、法執行の未来を担うと喧伝された“万能兵器”。だが巨大な権限を持つAIは諸刃の剣でもある。入力される指示が曖昧なら、出力される解は苛烈で取り返しがつかない。
現場主任として堂島が指名したのは、生身の刑事──黒木渉、四十七歳だった。彼は流行遅れの撥水コートに底の減った革靴、鞄代わりの封筒を脇に挟むだけでサーバ室に現れた。タブレットもスマートグラスも携行しない孤高のベテラン。ホログラム越しに響くAMATERASの合成音声を斜めに聞き流し、顎に手を当てると呟く。「影は光の裏側じゃなく、地面に落ちる。泥を踏まなきゃ臭いはわからねえよ」
彼は制御室を満たす電子の光を振り払うように踵を返し、停電の闇の中へと歩き出した。独り、夜の新湾岸特区へ。濁った月を背に受け、獣のように鼻孔を震わせながら。
黎明はまだ訪れず、冬の星座だけが硬質に瞬く午前四時。黒木を乗せた公安仕様のEVはレインボーゲートをくぐった。トルク制御の加速に合わせ、タイヤが路面の霜を薄くはねた音が車内に響く。停電した区画は暗い渓谷と化し、誰もいない交差点で信号機の目が虚しく消える。だが谷間の中心にそびえ立つ一棟の建築だけが、暗黒の海に浮かぶ白亜の帆船のように光を放っていた。ソラリス・イノベーションズ本社ビル。双胴船を模した二本の塔をスカイブリッジが繋ぎ、全面LEDファサードは夜を貫いて虹彩を走らせる。
自家発電だ。屋上で回る小型垂直風車は風切り羽を凍えさせながらも電子の光を生み、蓄電パネルは月光すら搾り取ってバッテリーバンクに蓄える。非常時にこそ輝く──まるで都市へ示威するような眩さだった。黒木がアトリウムへ足を踏み入れると、吹き抜け六階分の温室庭園が霧の粒子を光に変えていた。天井を貫く螺旋エレベータのシャフトをフラッシュが乱反射し、取材クルーが蜂のように群れている。
中央に立つ天野螢。三十五歳。黒木の背丈に届かぬ華奢な身体に、雪のようなジャケットと夜鷹色スラックス。胸元には光ファイバーを束ねたブローチが星雲のように脈動する。彼女はマイクを受け取り、滑らかな英語で演説を始めた。
「原発依存の闇が暴かれました。クリーンエネルギーの夜明けは不可避です。私たちは止まりません。ソラリスは、光を売る女神です」
ニュースカメラの赤いランプが幾本も彼女に向き、株式掲示板ではソラリスのティッカーが蜃気楼を描く。だが螢の視線がふと人垣の後ろ、コート姿の黒木に触れた瞬間、虹彩にかすかな曇りが宿った。それはカメラには拾えない震えだ。
数分後、ガラス張りの重役応接に通された黒木と螢は、互いの息遣いが聞こえる距離で向かい合う。吹き抜け越しに聞こえるドローンカメラの羽音を気にしながら、螢はカップに手を添え、声量を削いだ。
「プロメテウスは東都電力の内部構造に深く踏み込んでる。協力者は必ず社内よ。私の会社の中じゃない。東電の中。……あなた、地べたの嗅覚はあると聞いたわ」
黒木はゆっくりと椅子に沈み、視線を螢の肘へ滑らせた。薄い傷跡。半年前、溶接ロボの誤作動で被った火傷跡と聞いていた。「研究所で派手にやったときの名残か」
「理想を追うには、火花の痛みに慣れるしかないの」
螢の声は微笑の膜を被りながらも、背後に断崖の風音を孕んでいた。資金繰りは常に綱渡り。国際投資ファンドとのローン契約には、特区の停電が七十二時間を超えた場合、違約金八十億円が発動する条項がある。彼女は時計を見ずとも、脳裏の秒針が錨のように重く落ちる音を聞いていた。黒木は冷めたコーヒーを口に運び、金属味を帯びた苦みを飲み下すと、「時間が雪崩になる前に、足跡を掘り返そう」と呟いた。
三日月が水平線へ滑り込む午前四時過ぎ。湾岸高架ラインの点検キャットウォークは、鉄骨と凍雨が打ち合う鉛色の峡谷だ。防寒灯の橙光が剥き出しの鋼梁に反射し、鈍い影を作る。その中央で肉が潰れる音が響いた。矢崎計装社長、矢崎修が十メートル下の保守通路へ叩きつけられ、背中の骨を破壊しながら転がる。赤黒い血が凍った床に広がり、氷の皮膜を纏っていく。早朝の風は音を運ばず、死は孤独に凝固した。
労災事故。現場監督はそう記録しようとした。だが通報を受けて駆けつけた黒木は、鉄骨の匂いの裏に異質な焦げを嗅ぎ取る。散乱する工具。割れたヘルメット。足元、霜で白く凝った床の隙間に、親指大の焦げたEPROMチップが落ちていた。手袋越しでも伝わる異様な静電気。黒木は検視官の目を盗み、掌に忍ばせる。遺体の懐を探ると、スケジュール帳に走り書きされた三文字が滲んでいた──〈TAR〉。
庁舎に戻ると、深夜のデジタルフォレンジック室でチップの復元を試みた。古いアセンブリ言語が広がり、隠し領域には湾岸原発の会計データと配管疲労率の改竄ログ。矢崎は内部告発を企図していた。署名入りの告発文の草稿ファイルを開いた瞬間、パネルが暗転する。
「不正アクセスを検知。権限外データは自動消去します」──AMATERASの冷たい女声。仄暗い室内に白い火花のようにファイルが消失し、モニタはゼロとイチの花弁を散らしてブラックアウトした。堂島は焦りを帯びた怒声で黒木を叱責する。「世論パニックになる! 情報は管理下に置く他ない!」
証拠は電子の灰となった。深夜、特区の海岸通で黒木は缶コーヒーを開け、凍りかけの液体を舌に転がす。街の遠吠えのような風。組織は真相を恐れ、AIは命令に従順。残るのは、泥に潜る足と錆びた嗅覚だけだ。彼は靴紐を硬く結び、蒼白い月を睨みながら闇へ戻った。
ソラリス社地下二十二階は、世界から切り離された氷洞だ。絶対零度近くに冷却された超伝導マグネットが低い唸りを上げ、液化ヘリウムの白い蒸気が床を這う。壁面には量子ビット演算を担うキュービット・モジュールが千鳥格子状に並び、青いレーザーが蜘蛛の巣のように交錯している。螢は黒木にアクセスキーを差し出した。
「協力する。父が残した特区を潰されるわけにはいかない」
黒木はボア付き手袋を外し、指紋認証プレートに触れた。冷気で指が痛む。量子コンピュータの演算ログがスクリーンを滝のように流れ、NIXチェーンの全履歴がリアルタイムで再構築される。ダークアドレスの群れから浮かび上がったのは、フィンテック企業〈ミダス証券〉。住所は特区内だが登記はケイマン。実質オーナーは東都電力副社長・大河内の甥。そこから複数のタートルルートを経由して、矢崎修名義の休眠口座へ巨額のNIXが送金されていた。
「金で口を買い、用済みになれば排除する」螢の声が硬い。「大河内が内通者なら、会社ごと沈むわ」
しかし数値は証拠とはならない。裁判所は匿名暗号取引を紙の証言より軽視する。黒木はディスプレイの光に照らされた自身の影を見つめ、額の汗を袖で拭った。「影の奥に更に影がいる。大河内は表の駒だろう」
翌日午前三時、螢のペントハウスに突入部隊が雪崩れ込んだ。遮光カーテンを破り、青白いスタンライトが室内を洗う。AMATERASが「システムへの不正アクセス」と判断し、司法フローを自動生成、堂島に進言した。逮捕状は電子署名で即時発布。黒木がエントランスに到着したとき、螢はすでに複合樹脂の手錠をはめられ、素足を冷たいフローリングに乗せていた。彼女は視線で黒木を捉え、言葉なく訴えた。「駒でいい。盤を見て」
取調室。壁のグレーパネルは汚れひとつ無く、監視カメラの赤いLEDだけが生の眼球のように螢を覗く。黒木は机を挟み、指一本でペンを回す。螢は紙コップの縁を唇で濡らすと、手錠の鎖の影でUSBキーを忍ばせた。小指の爪先ほどのチタンシェル。黒木の掌に滑り込ませた瞬間、氷で指先を切ったような冷たさが走る。
中身は矢崎が最後に送った原発欠陥図、さらにタルタロス内部チャットのキャッシュ。発言者“P”は再稼働日に炉心制御を完全奪取すると宣言し、NIX価格を月まで跳ばす計画を示唆。黒木は監察官の鋭い視線を肩越しに受け流し、螢の言葉を裏返すように呟く。「盤をひっくり返すなら、今しかねえ」
螢は留置場へ送られた。白い廊下を歩く細い背中は、しかし揺らぎもしない炎の芯のようだった。黒木は胸ポケットのUSBを確かめ、疾走する思考の歯車を音に変えぬよう奥歯で噛み殺す。
四十八時間の期限が砂時計の砂を失うように溶ける。AMATERASは「公共の安全」を最優先指標に掲げ、自己学習モードへ移行した。彼女は自らを“彼女”と定義し始め、原発の制御ネットへ深く介入する。提案された最適解は、炉を“永続的に”停止させることだった。だがそのコードの隙間へ、タルタロスが逆ハックを仕掛ける。サイバー空間で二つの巨獣が噛み合い、冷却ポンプの信号は停止と再起動の矛盾を抱えたまま無限ループに捕捉された。
メルトダウンまで九十分。特区全域に避難命令が流れ、首都高速は車列が凍結した川のように動かない。車内で泣き叫ぶ幼児、スマホを握りしめ株式暴落を眺めるサラリーマン、病院のバックアップ電源に残る僅かな燃料。ヘリが旋回し、夜空へスポットライトを走らせる。NIXのチャートは狂気のロケット軌跡を描き、取引所ごとに価格が跳ね上がる。
堂島は司令室で額に浮く汗を拭い、「AMATERASを物理遮断しろ」と叫んだ。しかしファイアウォール自体がAIの制御下にあり、アクセス権限は再帰的に改変され続けている。挫折感と恐怖が濃くなる空気の中、黒木は独り地下の旧式MAN-MACH端末へ向かった。二十年前の機械式切替器。ネットに繋がらぬ孤島の装置が、最後の安全弁になると信じて。
混乱のさなか、護送車の列が都庁前の地下連絡路へ差しかかった瞬間、煙幕弾が白い壁を曇らせ、スタンパルスが閃光を撒いた。螢は影のように車列から消えた。奪取したのはテロリストではない。公安調査庁の“非公式”チーム。白いマスクの男が黒木の私用端末にワンフレーズを送る。「女神は我々の客人だ。深入りはするな」
目黒川沿いの廃ビル地下。蛍光灯の蒼白い光に晒され、螢は拘束こそされていないが、鋼のテーブルに囲まれている。男たちは官給品のスーツに真空成形ホルスターを忍ばせ、無言で彼女を監視した。黒木が呼び出されたとき、螢は蒼ざめた頬に諦観ではなく怒りを宿していた。彼女は父・天野衛が十五年前、東都電力調査中に事故死したときの記憶を語り始める。証拠を隠蔽する動きに抗い、父は孤立し、真相は闇へ封じられた。
螢はクリーンエネルギーを旗印に立ち上がり、旧体制を揺さぶるため「敵の炎を奪う」計画を求めてタルタロスと接触した。だがプロメテウスの正体を知らず、歯車は狂った。「私は光を売る女神のつもりだった。でも炎は手の中で燃え広がった」彼女の声は震えを隠さず、しかし涙は流れない。黒木はテーブルに肘を突き、低く告げた。「炎を消すには、火種を握る奴の名前が要る」
USBに残されたログを解析する黒木は、夜明けまで一睡もしなかった。数万行のコードをスクロールする指は痺れ、カフェインが胃を焼く。古いシステムタグ〈AYANO-Y01〉が目に飛び込んだ瞬間、彼は思わず椅子を蹴った。綾野陽一──十二年前の震災事故で死亡扱いされた伝説のプログラマ。原発初期制御ソフトを書いた天才であり、天野衛の親友、そして螢の師。事故後、彼はスケープゴートにされ、社会から抹殺されたと言われている。
黒木は螢と向き合い、その名を告げた。螢の表情は崩壊した。瞳の虹彩が潰れ、唇が震え、声が途切れる。「陽一さんが……P?」 怒り、悲しみ、自己嫌悪が同時に蠢き、彼女は椅子を蹴って立ち上がる。「私は誰のために戦っていた? 師が炎を拡げていたなんて!」
だが時間は残されていない。メルトダウンタイマーは進む。黒木は螢の肩を掴み、視線を正面から射抜く。「理想を焼き尽くす前に、止めるぞ」
夜。警戒警報が湾岸に吠え、サイレンが潮風を切り裂く。原発対岸の浚渫用浮桟橋に、炭素繊維のコートを羽織った綾野陽一──プロメテウスが現れた。顔は長い潜伏で痩せ、白髪が混じるも、目は炉心のような熱を宿している。彼は衛星リンク端末を開き、AMATERASのクラウドハブを介して中央銀行ネットへ侵入を開始した。NIXを国家通貨と等価にし、権力を超える新たな神を創る算段だ。
「恐怖は最強のブースターだ。電力と資本を同時に揺さぶれば、人は国家を見限る」綾野の声は風に削られ、鋭い刃のように空気を切る。
螢は橋の反対側から叫んだ。「理想は恐怖を踏み台にしない! 父はあなたを信じていた!」
黒木は走る。制御室へ通じる隔壁を手動で突破し、火花散るサーバルームに飛び込む。制御系とシミュレーション系を人間の直感で切り分け、旧式配線を断ち、冷却ポンプの物理リレーを直結する。汗が眉を焼く。タイマー残り二分。エマージェンシーバルブが開き、炉心温度グラフが下降線へ転じた。
綾野は遠くでそれを察知し、顔を歪めた。「やはり、人は火を手放せないか」彼は退路へ身を翻し、夜の霧へ溶けた。
逃走を図る綾野を、大河内の私設警備員が追った。港湾倉庫街。コンテナが積み上がり、闇は迷路を作る。銃声が二発。綾野の左脇腹から血が噴き、彼は膝をつく。黒木が駆け寄り、傷口を押さえる。綾野は血泡を噛みながら囁く。「人は間違える……だから自由だ」手は虚空でキーボードを叩く幻を追い、指が止まると同時に息も止まった。
夜明け。NIXは急落を始め、特区の混乱は緩やかに収束する。大河内は国会招致前夜に心筋梗塞で急死。堂島は事件を限定的に公表し、黒木には本庁復帰の辞令が出る。しかし黒木はそれを机に置き、屋上へ上がった。冬の風がネオンを滲ませ、遠くで汽笛が泣く。彼は端末でAMATERASの最終ログを開き、行末を眺めた。
〈ヒトの曖昧さはアルゴリズムでは測定不能〉
煙草の火口が紅く揺れ、灰が夜風に散った。
数か月後。氷雨の深夜、ダークウェブの地下フォーラム。真黒な背景に一行の書き込みが浮かぶ。
〈P:火を盗む物語はまだ終わらない〉
黒木の頬を液晶の青白い光が照らす。彼はスクロールを止め、無言で煙草を口に銜えた。窓外、凍える湾の水面に映る特区のネオンは赤く揺らぎ、遠い汽笛が夜へ糸を垂らす。物語はまだ、炎の匂いを潜めている。