2025年12月24日。日暮れ前の東京駅丸の内口は、クリスマスカラーに塗られた投資家たちの歓声と、木枯らし一号の鋭い叫びとが交差し、耳を裂くような熱気と冷気のうねりの中にあった。日経平均は歴史上初めて6万3千円を超え、巨大ビジョンは祝福のグラデーションを流し続ける。だがその祝祭の裏で、フリーランス校正者・霧島澪には三時間後に迫った締切という致命的な数字だけが、脈打つ大動脈のように全身を絞めつけていた。
総武線快速の御茶ノ水―秋葉原間。満員車両の中央で、澪は網棚に積み上げた四百枚の校正紙を両腕で支え、吊革にしがみついていた。カーディガンの袖からのぞく腕時計は17時43分。電子広告パネルには「年末キャッシュレス大還元」の文字、そして薄いチキンの匂いとシプレー系香水の甘さが混ざった空気が滞留する。サンタ帽を被る子どもの笑い声が背後で弾け、車両の床がわずかに揺れた。
澪は束の最上部にクリップで留められたゲラをめくる。蛍光イエローで囲まれた見出しは、まるでステージライトを浴びた舞台俳優のようにギラついていた。
――投資ファンド界の寵児・黒木蓮、AIが描く次の覇図
本文に溢れるのは桁違いの数字と専門用語。年率リターン23.87%、シャープレシオ4.12、10^9オーダーのパラメータ――。けれどページの隅々を探しても、人間の体温につながる語が一行も見当たらない。澪は眉間を指で押さえ、赤ペンを走らせた。
〈“勝利”ではなく“救い”と記すべきでは? 読者は数字ではなく救済を渇望している〉
朱字を残した瞬間、車窓に映る夜景が視界へ侵入した。神田川の漆黒の水面に、証券ティッカーの電光が歪み、クリスマスイルミネーションと溶け合って細い鞭のように揺れる。歓声と悲鳴、希望と恐怖が一本のグラフに圧縮される危うさ――胸の奥の警報がチカチカと灯った。
同時刻、六本木ヒルズ森タワー52階。黒木蓮は夜景を背に、MacBookのOLEDディスプレイに指を滑らせていた。量子コンピュータ用に最適化されたアルゴリズムが、ミリ秒単位で世界5大取引所の板情報を飲み込み、虹色のグラフを吐き出す。その曲線のわずかな凹凸は、0.001%の誤差ですら彼の美学には許されない瑕。静まり返る応接室の空気の中で、彼の呼吸だけが機械のごとく一定だった。
卓上のタブレットが淡く点滅し、雑誌社から戻ってきた赤字入りゲラを映し出す。ページ中央、澪の書き込みが刺さっていた。
〈この一文、“勝利”ではなく“救い”では?〉
蓮は眉を動かさないままその二文字を反芻した。“救い”。耳慣れない温度が肺の底まで入り込む。十年間、あらゆる感情を切り捨て、完璧な利回りのためだけに生きてきた。その歯車の一つが、遠慮がちな砂粒で空転し始めた感触――。胸の中央に、体温と無縁だった場所が熱を帯びた瞬間だった。
スマートグラスが通知を映し、日経平均+2.31%、VIX指数-0.7を示す。数字は青い勝利を謳歌している。しかし蓮はフレームを外し、ガラス越しの闇に息を吐いた。感情を切除して得た勝利の先に、何がある? 問いは氷柱のように尖り、自己を刺した。
蓮の掌が、小さく震えた。
12月26日。聖夜の残り香を帯びた薄桃色の朝日が、外苑前の並木道に斜めの影を落としていた。霧島澪は黒のトレンチコートの裾を握り、オフィスビルへ歩を進める。前夜、黒木蓮から届いたメール――「ご提案に感謝を。直接お礼を述べたい」――は、わずか二行ながら熱を孕んでいた。投資家が校正者へ礼を述べる? 出版社の同僚は一斉に茶化したが、澪の胸には好奇心という名の火種が灯っていた。
受付ロビーでは、ホログラフィックのチャートが床から天井へ渦を描き、油断すれば足元の現実感が溶ける。虹彩スキャンの光が澪の瞳をなで、扉が静かに開く。その先は静謐な回廊。足音が吸い取られ、息遣いだけが際立った。
最上階の執務室。壁全面のLEDスクリーンには、データが宇宙の星雲のごとく瞬き、渦巻いていた。為替のティッカーが銀河の腕を描き、コモディティのチャートが赤熱しながら超新星の爆発のように光る。澪は一歩踏み込み、思わず呟いた。「数字が……景色になる」。人間の営みを抽象化したはずの数字が、逆に圧倒的な生身の景観を構築している皮肉。
黒木蓮はシルバーグレイのスーツに身を包みながらも、デスクの前で軽く背を丸めていた。薄い紙のように折り重なる肩。澪が名を呼ぶと、彼は振り返り、ごく浅い会釈を見せた。瞳は湖面の静けさと深さ、その奥底に沈むいびつな石を同時に孕む。
「数字に触れると、心が乾きませんか」
澪の問いは、自分でも意外なほどの率直さで口を突いた。蓮はペンを弾くように指先で回し、チャートから視線を外す。唇に薄い笑みが浮かぶ。
「乾きます。だから鍛えます。砂漠で水に執着すれば、死ぬのは早いですから」
乾いたユーモアの下、彼の渇きは砂嵐のように際限なく広がっていると澪は感じた。澪は室内に置かれた観葉植物に手を伸ばし、硬質の葉を撫でる。「人工土だ」と蓮が説明する。呼吸をやめた緑。冷たい葉脈の感触が、蓮の孤絶を結晶化して伝えた。
打ち合わせは二十分で終わった。形式的な礼だけが交わされ、ビジネスの隙間に感情が染み込む余地はなかった。だがエレベーターに乗り込む直前、蓮が思いがけず澪の名前を呼ぶ。低く圧縮された声。
「あなたの朱字が、僕の歯車を止めた。……怖いものですね」
澪は振り返り、柔らかな声で答えた。「歯車は止まって初めて、潤滑油を欲しがるんです」。ドアが閉まる寸前、蓮の眼差しが言葉のない叫びで満ちた気がした。
夜。澪は千葉行き深夜バスの最後部座席に身を預ける。校正紙の端を指で折り返しながら、窓の外で氷雨が黒いガラスを叩く音を聞いた。バスが湾岸道路で横風にあおられ、車体が傾ぐ。運転手の動揺したブレーキに、乗客から短い悲鳴。座席を飛び出した長身の男性が通路を駆け、運転手の背後で身体を支点にテコのように踏ん張る。バスは数センチの誤差でガードレールをかすめ、停止した。
「大丈夫か!」
低い声と共に振り返ったのは、澪の幼馴染――佐伯健太。夜勤の配送を終えて帰宅途中だった。制服の青が雨粒で墨を吸い、額から白い吐息が上がる。澪は胸の奥に湯が流れ込むような安堵を感じた。しかしその熱の中にも、蓮の眼に漂っていた欠落が冷たい影を落とし続けていた。
12月29日、午前4時50分。都内最大級の物流センターには、夜明け前の凍った白気とフォークリフトの轟音が充満していた。佐伯健太は14時間目の勤労で、指先に鋭い亀裂をいくつも作りながら、荷台から荷台へ段ボールを積み替える。ドローン便の遅延が続き、本来なら空を飛ぶはずの荷が地を這う。そのしわ寄せは、彼ら肉体労働者の背骨へ集中する。
健太の腕の中に、艶やかな黒い箱があった。銀色のロゴ――NeurAxis。黒木蓮のファンドが出資するAI企業の最新スマートグラスが十セット。個数換算で彼の月給を軽く超える高価なハードウェア。汗と埃の中で、不釣り合いに無垢な光沢を放つ。
「あいつらの栄華の尻拭いは俺たちだ」
ふと漏れた独り言が冷えた空気に反響する。同僚が肩をすくめ、「世の中ってそういうもんだろ」と乾いた笑みを寄越す。健太は返事をせず、箱をリフトのパレットに乗せる。指がかじかみ、絆創膏の下で血が滲む。血液の鉄の匂いがマスク越しに鼻腔へ届き、怒りと虚しさが交互に湧いた。
丸の内、五菱商事資源開発部の薄暗い応接室。氷川玲奈は深緑の革椅子に腰掛け、南鳥島沖レアアース採掘権の非公開情報について、内線を切ったばかりだった。長い睫毛の影が頬に揺れ、指でペン先を弄ぶ。「蓮のファンドなら100倍のレバレッジで仕掛けるでしょうね」と呟く声は、硝子片のように鋭かった。
机上の端末に、大学時代の友人――霧島澪――からの未返信メッセージが光る。〈一杯だけ飲まない?〉という気軽な誘い。玲奈は返信を逡巡した。「友情と出世。二つの天秤が揺れるのね」。鏡に映る自分の口元へ、赤い口紅を引く。インサイダーの匂いがする打診を受け入れれば、出世は保証される。しかし澪の無垢な信頼を裏切る代償に、どれほどの夜を眠れなくなるだろう?
深夜の葛藤は、蛍光灯の白色光を刃に変え、玲奈の影を壁に伸ばした。
12月29日23時47分。蒲田の築四十年の木造アパート。六畳一間の床にはLANケーブルとSATAケーブルが縄のように散乱し、17歳の天才ハッカー、神崎優真のか細い足首を絡めていた。かすれたモニター三枚は異なる相場を映し、点滅する赤と緑が部屋を人工的な心拍で満たす。
「世界一退屈なゲーム、始まり始まり」
優真は囁き、キーボードを撫でる。背筋を貫くのは、退屈への憎悪と自分の無力感だった。彼のコードは、BlackHeron Capitalのバックエンドに開いた小さな穴を拡大する。ログ監査の盲点を突く僅かなパケットが、量子アルゴリズムの呼吸を狂わせる。
午前1時17分。ニューヨーク先物市場の深夜帯へ不可解な注文が1秒間に1200回連射される。買いと売りが互いに発火し、熱を持ったバグは取引所のサーバーを瞬間冷凍させる。世界を包む金融網の深層で、電子の悲鳴がこだまし始めた。
翌30日午前9時。東京証券取引所。開場の鐘を合図に、フラッシュクラッシュが発生。日経平均はわずか10分で4,000円急落。大型銘柄は連鎖的ストップ安、ディーリングルームのモニターは真紅の滝となる。六本木53階のガラス張りオフィスで、黒木蓮は含み損-48億円を示す数字を凝視していた。
耳の奥で心音が遅れて聞こえる。従業員が叫び、電話が鳴り、記者がロビーに殺到する。しかし蓮の視界はチャートの赤いローソク足だけにフォーカスされ、時間が凍った。完璧なはずのアルゴリズムがなぜ崩れた? 脳内で数式が瓦礫となり、再構築を拒む。
そこへ澪からの着信。「あなたは負けたんじゃない。世界があなたを試しているの」。受話器越しの声は焚き火の熱と雪の冷たさを同時に孕み、蓮の感覚を揺さぶる。しかし街では停電が始まり、為替サーバーの冷却装置が落ち、闇が広がる。
新橋の古い電気屋、小田切電器。白髪混じりの店主・小田切毅が、行列に並ぶ客のスマート家電を手動で診断していた。澪は取材帰りに飛び込み、灯油ストーブを借りたいと頭を下げる。黒い手袋を外した小田切が、煤に汚れた掌でタンクを満たしながら言う。
「人も機械も、直すより捨てるほうが楽だ。でもな、魂は削れる」
ストーブの灯芯が青い火を灯す。澪はその揺れに、数字では測れない価値の重さを見た。
12月31日16時。黒木蓮はファンドの臨時取締役会議室で、辞任決議案の投票結果を虚空のような静けさで受け取った。否決はわずか1票、保留2票。事実上の解任であった。蓮はスクリーンを消し、背筋を伸ばす。
「私は勝利を渇望しました。しかし、何に負けたのか、いま初めてわかった気がします」
会議室を出ると、廊下の突き当たりに霧島澪が立っていた。目尻は泣き腫らし、グレイのコートのポケットで細い指を握りしめている。蓮は歩み寄り、彼女の名を呼んだ。
「誰かの温度を感じられなくなったら、それが本当の敗北よ」
澪の言葉は深く静かな湖に落ちる石のように、蓮の胸へ沈む。彼は澪の手を握り、指先の微かな震えと自らの脈動を確認した。ガラス張りの廊下を風が通り抜け、冷気が二人の頬を刺す。その温度差が、却って手のひらの温かさを際立たせた。
そこへ神崎優真から匿名暗号メールが澪のスマートフォンに届く。〈ゲームを終わらせたい。会ってほしい〉。添付された座標は東京湾岸の無人物流倉庫。澪は即座に決断し、蓮に向き直った。「行かなくちゃ」。蓮は頷き、自らの組織網へ指示を飛ばす。
澪は佐伯健太の配送トラックに飛び乗り、湾岸道路を疾走する。冬の烈風がフロントガラスに横殴りの雨を叩きつけ、ワイパーが悲鳴を上げる。「危険だ」と健太は言うが、視線には恐れより覚悟が宿っていた。街灯の橙が濡れた路面に多重の軌跡を描く。
倉庫内部は自動搬送ロボットが停止したまま、白いLEDだけが無機質に点っている。パレットの陰に、フードを深く被った少年――優真が震えていた。瞳は捕らえられた獣のように荒く光り、スマホの画面が冷たい青を放つ。
「壊すことでしか、自分を証明できなかった」
優真の声は割れたガラスのように脆い。澪は膝をつき、両手で彼の手を包む。スマホの裏面の冷たさと、少年の体温の不一致に胸が締め付けられる。
「あなたの才能は、守るために使える。私は証人になるわ」
背後の鉄扉が叩きつけられ、黒服の私設ガードが突入。ライフル型スタンガンが青い閃光を走らせる。健太は反射的に澪と優真を庇い、電撃弾が肩を焼く。火花、焦げた布の匂い、血の匂いが瞬時に混ざり、倉庫のLEDがチカチカと明滅する。
その時、屋上からドローンヘリのローター音。黒木蓮がワイヤーで降下し、ガードの前へ身を晒す。スーツの裾が風で翻り、冷たい声が倉庫に響く。
「彼らに指一本触れるな。次の相場は、私が決める」
その一言でガードが怯み、上層部からの撤収命令が無線に飛ぶ。優真は蓮を見上げ、燃えるような涙を浮かべた。
「俺を、救うのか?」
「君自身が世界を救う。私は舞台を整えるだけだ」
蓮の声にはかつてなかった柔らかさが宿っていた。
1月2日、午前7時。丸の内の高層ビルの最上階、五菱商事のサーバールームは冷却ファンの轟音で満たされていた。氷川玲奈は白衣のような作業着に身を包み、最終アクセスログを確認する。USBへコピーしたレアアース利権のインサイド取引データ――それは彼女自身の出世を保証する宝石であり、同時に腐った世界への爆薬でもあった。玲奈は深呼吸し、匿名のリークサイトへアップロードボタンを押す。指先が震え、送信完了の表示が灯ると同時に、廊下で部長の怒声が響く。ロッカーには退職届。玲奈はコートを羽織り、逃げるのではなく歩く速度で社を出た。澪の笑顔を胸に思い浮かべ、ビル風を受けて瞳を閉じる。
同日正午、BlackHeron Capital臨時対策室。長机に並ぶモニターは再び緑のローソク足を描いていた。優真が提供したパッチがアルゴリズムの穴を塞ぎ、市場は正常化へ向かう。だが蓮はキーボードを押さえ、立ち上がった。
「これで終わりです。ファンドは清算し、資金は協同組合型プラットフォームへ移します。利益は労働者の所得補填に充てる」
役員が悲鳴を上げ、株主が怒号を投げる。しかし蓮の声は澄んでいた。「数字は人を救える。霧島さんが教えてくれた」。騒然とする室内で、蓮はジャケットを脱ぎ、窓を開けた。冷たい風が書類を舞い上げる。紙の音の向こうに、遠く神田川の水面に差す真冬の陽光が揺れて見えた。
佐伯健太は都立病院の白いベッドで腕を吊り、点滴の滴がゆっくり落ちる音を聞いていた。ドアが開き、澪が静かに歩み寄る。健太は俯いていた顔を上げ、不器用に笑う。
「俺はトラックしか走れない。でも――君の道標になれたら、それで充分だ」
澪の目に涙が浮かぶ。「あなたの優しさは、世界を支える翼よ。私は灯りでいるから、いつでも帰ってきて」
二人の手が重なり、互いの鼓動が指先を通じて重ね合わさる。窓外では白い雪片が、舞い上がる風に逆らわずゆるやかに空を漂った。
同じ頃、小田切電器の店先。石油ストーブの暖色の炎がガラス越しに滲む。優真は軍手をはめ、壊れたトースターを分解していた。店主が湯飲みに入れたほうじ茶を差し出す。「焦がしすぎは注意な」。優真は笑い、基板の焦げ跡をルーペで覗き込む。
「不具合のある世界を、パッチし直すんだ」
レジ横の黒板には店主の新しいスローガンがチョークで書かれていた。
『修理承ります 未来も同様』
1月5日23時半。台場の観覧車は営業終了後、月光を浴びてゆっくりと点検運転をしていた。澪と蓮は係員に頭を下げ、最後のゴンドラへ乗り込む。窓ガラス越しに東京湾の光が氷の粉のように煌き、遠くに湾岸倉庫のクレーンが赤い航空灯を瞬かせる。
キャビンの真ん中に、古いセーラー万年筆とアイボリー色の便箋が置かれた。澪はペン軸を蓮へ差し出す。
「効率なんて、悪すぎるわよね」
蓮は微笑む。「最高に贅沢だ」。インクを吸い上げる音が静寂を裂き、二人は隣り合って便箋に文字を綴り始める。万年筆の筆跡は時折揺れ、滲み、インクの匂いが微かに立ち上る。
〈あなたの未来を、わたしと手書きで綴ろう〉
観覧車が最頂点に達し、キャビンが一瞬息を止めた。下には摩天楼の光と闇のパッチワーク。遠く雪を孕んだ北風が海面を走り、波に銀の皺を描く。蓮と澪の唇が静かに触れ合った。その温度はデータにも貨幣にも換算できず、ただひとつ“救い”という名で世界に刻まれた。
玻璃の都市を覆う長く重い冬が、その瞬間、僅かに音を立てて融け始めていた。