風向きが変わったのは東京の街路樹がまだ銀杏色を手放せずにいる、十二月の第一金曜だった。気象庁は平年より十三日早い初雪を告げ、駅前の電光掲示板には「1ドル=239円90銭」という数字が、結氷した池の水面のように微動だにしなかった。地下鉄大江戸線・新宿駅ハチ公口の改札を抜けた黒澤澪は、ELパネルの光を浴びながらスマートウオッチを上げ、為替レートの脈拍のような点滅を見つめ、吐く息より白い溜息をひとつ落とした。
「原材料費、完全に三倍越え確定……」
薄い唇に触れた呟きはスクランブル交差点の雑踏に溶けた。モニタ越しでも数字は質量を持つ。澪の視線の背後で、薄曇りの空に新宿の高層ビル群が青白くそびえ、風が縦横に走る街路の隙間を氷柱のように貫いた。年末の繁忙期にしては人の動きが鈍重だ。コートのポケットには財布の代わりに不安が詰まっているのかもしれない。
京成曳舟駅から徒歩七分。隅田川から吹きつける雪混じりの風が波板トタンの壁を揺らし、クロサワ精密──坪数三十、昭和四十年代に建てたまま時を止めた町工場──は、まるで雪の毛布に半分埋もれた化石のように息を潜めていた。看板は錆で蝕まれ、「黒澤」の二文字が辛うじて読める。午後四時、旋盤の金属音が降雪の緩衝材を突き破り、隅田川沿いの空気を震わせた。
僧帽筋に張りついた寒さと疲労を無視して澪は作業着姿の父を探す。剛志は古いNC旋盤の前で両足を踏ん張り、切削油にまみれた手袋をはめ直していた。五十半ばを過ぎても背筋は弓の弦のように真っ直ぐだが、黒い作業帽の下の白髪は彼の美学より速く増える。
「今日、鉄のインゴット届かなかった」
澪の声に剛志は鼻を鳴らした。
「また通関が遅れたんだろ。円安で燃料も高騰、船会社が寄港地削ってる」
主軸を止めた父は擦り切れたタオルで汗と油を同時に拭い、その掌には火傷と切り傷が縦横に走っていた。タオルを握る刹那、銀色の鉄粉が血糊のように掌紋へ入り込む。「銀行には頼らない」「値上げはしない」。頑固で時代錯誤な言葉を澪は二年聞き続けている。
外では雪。同じ東京の上空、六本木ヒルズ五十二階ガイア・ソリューションズ本社。AI開発部門長・神代蓮は吊り下げ式ホログラムモニタを見上げたまま顎を指でなぞっていた。
「許容ブレ、ゼロ点一ミクロン。試作品六号もアウト」
物流ドローン用タービンブレード。その根元を担う軸受は一枚でも公差を外せば空中で分解する。蓮のアルゴリズムは理論上完璧なのに米シアトル、独ミュンヘン、シンガポール、どの試作ラインも失敗した。素材は正義、加工精度は王──その現実が未来都市のガラス越しに立ちはだかる。
「国内サプライヤは?」
調達担当の投影リストの末席。灰色にハイライトされた小さな行。
「クロサワ……? 聞いたことないな」
「町工場です。従業員十四名。国際技能五輪でボールねじ部門銀。精度は神がかり、ただ経営ヤバい」
蓮は瞼の奥に灯る好奇心を隠せなかった。不合理の匂い。埃と古傷で出来た町工場に、最新AIが設計した未来を託す?──だが実証実験まで六十日、選択肢は数字上ひとつしか残っていなかった。
十二月二十三日。東京は氷点下。クリスマス目前の夕暮れに、六本木から隅田川を目指す神代蓮の自動運転タクシーは首都高を駆けた。車内BGMはジャズの冬のスタンダード、しかし蓮の耳にはドローンのプロペラが千枚羽根で刻む人工風の方が生々しく鳴っていた。
白革シートから立ち上がるとデジタルサイドブレーキが噛む音がして、蓮は雪の匂いを含んだ下町の空気を肺へ吸い込む。ガラスと鋼の摩天楼が背後で遠吠えし、前方はトタンとコンクリの迷路。鉱物油の湿った呼吸、鋼を削る匂い。街灯の光に鉄粉が星屑を散らした。
錆びた引き戸を叩いても返事は旋盤の唸りだけ。蓮は手袋を外し戸を引いた。
「見学はやってねえ。帰りな」
剛志の声は低く、切断面のように鋭い。
蓮は名刺を差し出す。触れると社章が浮かぶARチップ入り。
「ガイア・ソリューションズ神代です。極小軸受の試作を——」
「量産屋は帰れ。うちで間に合う仕事じゃねえ」
即答に蓮の眉間がわずかに動いた。その刹那、澪が事務所から駆け寄る。
「父さん、せめて話を!」
「澪、客を返す」
澪は蓮に向き直り、濁りのない瞳で問いを放つ。
「公差とロットは?」
「0.1ミクロン、三百セット。納期五十五日」
計算式がホワイトボードを埋め、油性マーカーの匂いさえ戦場の硝煙のようだった。
「試作費は前金三割。歩留まりゼロなら契約解除、違約金五百万」
澪の宣告に剛志は目を細める。「味方のフリして敵か、お前は」
蓮は微笑を浮かべた。「非合理ですが飲みましょう。時間は血液ですから」
「金じゃねえ、魂だ」
剛志の吐き捨てに合わせ、古いストーブが揺らいだ。油の匂い、雪の芳香。六本木と下町の距離がゼロになる瞬間、蓮は澪の瞳の奥に潜む炎を見た。計算式だけでは燃え上がらない何か。
同時刻、ガイア社グローバル戦略室。氷川玲奈はシャネルの香水を纏い、赤い口紅の下で冷笑を浮かべた。
「町工場? 神代は自滅願望でも?」
ボストン仕込みのファンド人脈で彼女はCEO職への階段を設計図に描く。神代が“感情”に踊らされるほど椅子は近づくと信じていた。
大晦日の隅田川は鋼色の水を震わせ、屋形船の提灯が霧に滲んだ。クロサワ精密は例年なら仕事納めだが、今年は灯が落ちない。
澪は事務所の蛍光灯の下、CADと財務ソフトを双子のように起動し、父の視線から逃れるように深夜の旋盤へ向かった。古いNC制御をバイパスしUSBメモリに蓮の監視AIを忍ばせる。
刃先が火花を散らす。刃物台の振動が骨伝導で鼓膜を打ち、澪の鼓動は雪解け水の流速で速まる。機械音に紛れトタン屋根を打つ雪音がリズムを刻む──同じビートを六本木のオフィスで蓮も聴いていた。
「切り込み深さ二ミクロン、いい……あと五十秒」
リアルタイム位相差画像が時計の秒針より静かに揺れ、年越しの瞬間、澪はマシンを止めた。扉を開けば切削油の湯気。温度で指先がようやく人間に戻る。
深夜二時。澪が缶コーヒーを二本抜くと裏口に蓮の影があった。
「直接見たほうが早いと思って」
「合理主義らしくないわね」
「非合理に付き合うには、非合理が要る」
ふたりはスチール階段に並び、缶をぶつけた。鉄の冷たさが指を刺し、それでも笑い声が零度の空気を少しだけ暖めた。
「私たち、同じものを見てる。触れられる実体と触れられない未来を」
「根は同じ、枝が違う。だったら graft しよう」
蓮の比喩に澪は吹き出し、階段の金属が震えた。
正月三が日が明けるころ、試作品第一ロットが完成した。長さ三センチの軸受が別次元の光沢を帯びて整列する。表面粗さRa0.02、許容差±0.05ミクロン。蓮はVRマイクロスコープ越しに深く息を吸った。
「……合格だ。AIにも誤差が読めない」
澪は笑った。しかし工場の隅で剛志は腕組みを解かない。皺が雪を払うように動いた。
隣室のラジオは帰省客が山間部で立ち往生と報じる。同刻、氷川玲奈は深圳のホテル最上階バーで語った。「クロサワ精密? 買収は失敗した亡霊。コストでは中国が呑むわ」
成人の日を三日後に控えた金曜、曳舟の空は抜けるような青だが気温は氷点下二度。朝九時、クロサワ精密に黒塗りのテスラが滑り込む。
「天王寺宗一郎と申します」
初老の男はサヴィル・ロウ仕立てのコートを翻し杖を突きながら名刺を差し出す。剛志の瞳が瞬き、三十二年前の因縁が甦る。
「お前さんの顔、三十年以上ぶりだ」
天王寺は口角を下げ目礼。「我がファンドは御社の“技術”を金の地金のごとく評価する。買収ではない、全株を時価の十倍で」
剛志は首を振った。「技術は魂だ。魂は売らねえ」
夕刻、テスラが去ると同時に社内ネットが落ちた。CNC制御卓が再起動を繰り返し、サーバールームの警告灯が点滅する。
「……やられた。ランサムウェアだ」
蓮がノートPCでトラフィックを可視化。内部IPから異常パケットが噴水のように流れる。発信元は“ai-remote-node-02”。
「内部犯行……?」
ログを追うとVPN経由で氷川玲奈の部下に突き当たるが改竄痕跡が黒く塗り込められていた。
翌朝、ガイア社本社。緊急取締役会。氷川は静かに指摘した。
「神代部長の導入した非正規AIが原因。安全プロトコル違反です」
蓮は停職、クロサワ精密との契約は白紙。地下駐車場に吐く息が絡みつくように冷たい。
工場で剛志は旋盤を止めた。「所詮、AI屋の戯言だった」
澪は父に食ってかかった。「じゃあ私たちの努力は全部嘘?!」
返事はなく灯が落ちる。雪は止み夜空は澄み渡るのに心は闇に降ったままだった。
凍りついた一月下旬。澪は諦めなかった。高校時代の親友、相馬結衣──暗号資産取引所のセキュリティエンジニア──の協力で試作品製造時に自動生成されたブロックチェーンのタイムスタンプを掘り起こす。
「このハッシュ値。クロサワのNCログから派生した署名よ。データは削られてもブロックチェーンの刻印は消せない」
カフェのスチームミルクの香りが甘いが内容は刃物だ。さらに澪は玲奈が中国企業へ横流しした設計図を極秘入手。摩耗係数の微調整項目が意図的に抜かれ再現不能。クロサワの“匠”が無形で持つ公差の秘密だった。
一方、蓮は停職の身で社内匿名チャットに潜りテック用語で偽装されたログファイルを拾い集める。フットプリントは玲奈の直属部下へ集中。ピースがすべて嵌った夜、蓮は澪へメッセージ。「隅田川で会える?」
深夜十一時。風速八メートル、体感マイナス六度。隅田川テラスの街灯は雪を光ファイバのように照らす。
澪は厚手コートのポケットでUSBを握りしめ、蓮の足音を待つ。
「これが裏付け。玲奈の不正は明白だ」
USBを差し出す指が触れ、氷の温度。同時に瞳が溶ける温度。
「あなたのAIがなきゃ、私は証明できなかった」
睫毛に雪が乗る。
「君のしぶとさがなきゃ、データはただの数字だ」
蓮は澪を抱き寄せた。吐息が触れ合う距離、雪の無音を破るほど静かな口づけ。遠く浅草寺の鐘が雪粒と混ざり、ふたりの世界だけが温度を取り戻した。
二月十日、ガイア・ソリューションズ株主総会。帝国ホテルの大ホールはLEDシャンデリアが星雲のように輝き、スマートグラスに株価チャートが滝のように流れる。休憩時間、壇上へ天王寺宗一郎が歩み出た。
「私は現在、筆頭株主である」
電圧のようなどよめき。
「氷川玲奈取締役は物流ドローン案件に関し重大な背任行為を行った」
スクリーンに映されたのはクロサワ精密の軸受実物、ブロックチェーンタイムスタンプ、そして玲奈の部下のアクセスログを示すポリゴンチャート。
玲奈は顔色を薔薇から灰へ変え「捏造よ!」と叫ぶが、蓮が前に出た。
「AIは嘘を吐かない。操る人間が嘘を吐くだけだ」
拍手と怒号の坩堝。取締役会は即時に玲奈を解任、蓮の停職を撤回。しかし蓮は壇上で静かに宣言した。
「大きすぎる組織では人の顔が見えない。私は見える未来を選ぶ」
同刻、クロサワ精密。剛志は旋盤室を静かに歩き、天王寺が差し出す投資契約書を見た。
「魂を売る訳じゃない。魂を次世代に繋ぐだけだ」
作業帽を澪に渡す。「明日から社長はお前だ」
澪は震える唇で「はい」と答えた。油の匂いが帽子に染み込んでいた。
二週間後、墨田区の廃倉庫。元ボール盤工場の巨大空間に真新しいCNCと協働ロボット、厚い鉄骨にLiDARが取り付けられた。「クロノス・ファブ」。
天王寺の出資、蓮のAI基盤、澪の町工場ネットワークが融合した“小さな巨大企業”は初期社員二十八名。半数は隅田川沿いの職人たちで、残りはガイアを去った若手エンジニアたちだ。
開業前夜、屋上にふたりはいた。東京タワーの灯が雪雲を橙に染める。未乾燥のワックスの匂い。
「見えないものと触れられるもの。どちらかじゃなく両方あるから世界は美しい」
澪の呟きに蓮はポケットから黒いフィルムカメラを差し出す。
「父の形見。ファインダー越しに、僕らの未来を焼き付けて」
澪はシャッターを切る。フラッシュが雪片を散らし、ふたりの横顔を浮かび上がらせた。
雪はいつの間にか止み、風の匂いは冷たいが草の芽吹きを秘めている。
それから三年。二〇二八年四月。桜が隅田川を流れ、クロノス・ファブ本社のガラスファサードへ舞い上がる。月面探査ドローンの制御モジュールを積んだロケットが種子島から飛ぶ朝、澪は掌で小さなプラチナ製ベアリングを転がしていた。結婚指輪代わり、蓮が削り出した世界で一番滑らかな指輪。
蓮はスマートグラスに次の設計を浮かべながら澪の肩に頭を寄せる。
「次は、人が宇宙へ運ぶ“愛”の形を設計しよう」
春雪が舞い、花びらと混ざって風に踊る。澪と蓮の笑い声は柔らかく重なり、雪解け水に乗って遠い未来へと流れていった。