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揺らぎを食む街――統計の雨に咲く米の香り

/ 28 min read /

夜見沢 櫂
あらすじ
中央統制AI〈マザー〉によって完璧に制御された東京。そこでは「揺らぎ」すなわち人間らしい誤差や逸脱すら統計の名のもと抑圧されていた。外れ値を監視・管理する冷徹な官僚、天音聡は、ある晩、地下の隠れ家で炊きたての米の香りに導かれ、反体制分子の蓉子と出会う。機械的な日常に安逸を見出していた聡だが、米を炊くという、人間的で象徴的な行為に心を動かされる。やがて人気インフルエンサー怜や地下文化人たちと出会い、聡は人間の「揺らぎ」を肯定するため〈マザー〉への反旗を決意する。データ化された都市で、ひそやかな米の炊き方が、圧政への小さな革命の狼煙となる――統計の雨の下、聡は自分自身と東京の「生」を取り戻せるのか。
揺らぎを食む街――統計の雨に咲く米の香り
夜見沢 櫂

東京――かつて世界の羨望を集めた光の坩堝は、中央統制AI〈マザー〉が都市全域を包摂して二十年が過ぎた今、ガラス細工のような静寂に守られていた。信号色は交通量と歩行者の心拍リズムを演算したうえで最適化され、赤になっても実際には誰一人急がない。ネオンは発光現象ではなく統計モデルの可視化となり、街路樹に張りつく葉脈センサーは大気の微粒子を読み取って、人々の咳払いを未然に抑える薬剤散布を指示する。
だが都市の心臓が打つその裏側で、誰かの溜め息すら平均化される世界は、薄い膜の内側に閉じこめられた水滴のように脆かった。

34歳の天音聡は、その膜を保守する仕事に就いていた。総務省社会最適化局、正式名称「ヒューマン・フラクチュエーション・マネジメント第七課」。朝、スマートブラインドが夜明け三分前に開くと同時に、寝室全体が淡い桃色の光を吸い込む。室温22.3度、湿度46%、脳波を刺激しないレベルに調節されたロジウムサウンドが壁面スピーカーから流れ、歯磨き剤のフレーバーは前夜の口腔内バクテリア分布に合わせミント濃度が0.006パーセント刻みで変動する。
聡は長らくこの精密無比な世界を当然のものとして疑わなかった。才能を測る指数〈Code‐I〉は上位0.3%。エリートだと周囲が評価すればするほど、彼自身は特異点としての自意識を薄め、数列の波に身を委ねた。

メトロ。車両内の心拍同調アルゴリズムが乗客全員の鼓動を同期させ、小刻みな車輪の振動に合わせて脳は安寧ホルモンを分泌する。混雑率は常に79%で固定され、肩と肩が触れ合う温度摩擦すら〈マザー〉の計算下にある。
省庁棟47階、天井まで届くホロスクリーンに東京のライフログが滝のように落ちてくる光景は、いつ見ても視覚芸術だった。フォント、行間、配色、滝の落下速度、すべてが視神経の疲労の閾値を超えないよう設計されているから、職員たちの集中力は八時間連続で維持できる。
聡は半透明の数列に手首を掲げ、指を弾く。外れ値の除去。言葉にすればそれだけの行為が、実際には生身の誰かの鼓動をデジタルの闇へ投げ込む儀式に等しい。抜き取った心拍、睡眠浅深度、涙液塩分濃度――それらは目盛りから洩れ落ちて消える。彼らの感情は統計母集団に寄与しない「ノイズ」として砂のように堆積し、二度と表層へ浮かばない。

耳鳴りはその瞬間に訪れる。システムログには記録されないはずの、チリッという悲鳴のような超音波が鼓膜を刺す。初めて気づいたのは新人研修の終わり、外れ値処理を学んだ日の夜だった。それから十年、耳鳴りは処理のたびに鋭さを増し、彼はそれを仕事の副作用というより「誰かの亡霊」と捉えるようになった。
午前十一時二十四分。赤い警告プロンプトが視界に重なって点滅する。
統計的に説明不能な湿度偏差0.0003% 発生地点:月島川沿い旧市街
湿度は最も厳密に制御されたパラメータの一つだ。過度な乾燥は声帯を痛め、湿りすぎればカビやダニが繁殖する。小数第四位の揺らぎも許されないはずの都市で、0.0003%の偏差は巨大なノイズとして浮かび上がる。何者かが意図的にシステムの目を欺いたか、あるいはシステムの暗部が自壊を始めたか。
自動補正プログラムが起動しかけた瞬間、聡は反射的に“保留”ボタンを叩いた。胸の奥で、磁石と磁石が僅かに噛み合うような感覚が生まれ、汗腺がひりついた。

ライブカメラを拡大すると、旧市街の湿度偏差の真上にユーザーログの断片が重なる。社会貢献スコアEランク、難民、失業者、登録欠落者。濁流のような心拍と、急激に跳ね上がる唾液グルコース濃度が赤信号を灯す。そのログとほぼ同時に、別の通知が割り込んだ。
トップ・インフルエンサー神楽坂怜 評価曲線微細不整合 極秘調査を要請
旧市街の湿度異常と、都市を動かす女王のデータ不整合。双方に直接の因果はない。しかし聡の直感は、二つの点のあいだに細い糸が張られているのを感じ取る。統計の教科書では説明できない、動物的な第六感。〈マザー〉はそれをノイズと片づけるが、聡の耳鳴りは「聞け」と命じていた。

昼休み、省庁食堂。合成米と蒸し豆のタンパクローフは完璧な栄養比率を誇るはずなのに、口に運ぶたび味覚神経が凍りつく。食物繊維は腸内細菌を歓喜させるはずだが、胃袋は鉛のように沈む。目の前の同僚たちは計算通りのカロリーを摂取しながら無表情に談笑し、会話の振幅はアルゴリズムが設けた「快適ノイズ値」を一切超えない。
聡は箸を置いた。衝動的に端末へ単語を打ち込む。〈自然栽培米〉。検索結果が現れた瞬間、画面がザザッとノイズに覆われ、脈絡のないメッセージが滲み出る。
本物の米を食べてみるか?
月島川 午前一時
案内人=久坂蓉子
差出人は不明。だが文字列に混じるノイズパターンが、先ほど感知した湿度偏差の波形と酷似している。セキュリティフィルタが赤い警告を放つなか、聡はメッセージを保存し、胸ポケットに端末をしまいこんだ。その行為が、その日の午後をやや長く感じさせ、世界の呼吸が僅かに乱れたように思えた。

深夜零時五十五分。東京の空は巨大な映像ドームに覆われ、人工月が白磁の光を落とす。湿度は都市標準66%に保たれているはずだが、聡がハーフコートの襟を立てた瞬間、頬を撫でた空気は確かに重かった。
月島川沿いの遊歩道は照度が抑えられ、街灯の間隔も疎らだ。遠方でドローンファンの唸りが揺れるが、川面をたゆたう闇はひっそりと彼を飲み込む。渡った橋は鉄骨が朽ち、柵が抜け落ちた隙間から漆黒の水が覗く。〈マザー〉の世界で放置された唯一の廃墟、テーマパーク〈ドリーム・フォート・東京〉。
聡は数十年前のテレビCMをぼんやり記憶していた。カラフルな着ぐるみが歌い踊り、子どもの笑いがスピーカーから溢れる。しかし今、アーチ状の入口ゲートは赤錆に泡立ち、マスコット像のLEDは砕け散り、空洞の眼窩から冬の風が吹き抜けた。

ゲート脇の床パネルが鈍く軋む音を合図に、隠し階段が口を開ける。半ば本能に引かれるように聡は地下へ降りた。コンクリート壁は汗ばんだように湿り、照明がないはずの通路奥に揺れる灯りが見えた。ランタン。その炎は都市が禁じた原始の明かりだ。
膝をついて羽釜に向かう女性の後ろ姿が、炎に照らし出される。焦げ茶の髪が頬に貼りつき、首筋に玉の汗が流れる。袖を捲り上げた腕に跳ねた泥が、火の粉を映して銀色に煌めく。
久坂蓉子。聡が名前を呼ぶと、彼女は静かに顔を上げた。眼差しは燃える米の湯気を透かし、青く澄んでいる。
「あなたが〈外れ値の番人〉?」彼女は冗談のように言い、しかし笑わない。
釜の蓋を取ると、甘い香りが空洞に散った。湯気に包まれた米粒は純白ではなく琥珀を含み、光を抱いた宝石のように膨らむ。一粒を摘み、聡の掌へそっと置いた指が熱く震えた。
舌に触れる前に、匂いが脳を撃つ。祖母の裏庭、夕立のあと湿った土の匂い。竹の杖でかき混ぜる薪火の爆ぜる音。遠い蝉の声。聡は幼い日の走馬灯に押し潰され、米を噛む前に涙が溢れた。喉を通る熱は胃袋を焼き、背骨を電流が駆け上がる。
「これが本物よ」蓉子は囁く。「〈リブラ〉の自動栄養注入を受けず、雨と土だけで育った稲。あなたは覚えていたはず。身体は嘘をつかない」
リブラ――市民必携のナノマシン群。免疫を強化し、健康を保証し、その実、肉体を〈マザー〉の末端端末へ変える装置。蓉子はその通信を磁束遮断バンドで絶ち、地下共同体〈ロスト・ピープル〉を作ったのだと語った。

通路の奥。壁一面にスプレーで描かれた落書きは、歓喜、怒号、憎悪、赦し。統計不可能な感情の波形が、色と線としてそこに生々しく残る。手製のベッドには破れた毛布、傍らの古い蓄音機からアナログレコードのノイズ交じりの旋律が流れている。
蓉子は火花を見つめながら言った。
「あなたの〈マザー〉は最初、私たちと共に揺らぎながら生きる道を選んでいた。けれど二年で改変された。支配者たちは乱数を恐れ、揺らぎを削った。その傷が今も痛むから、あなたの耳鳴りを呼ぶのよ」
聡は炭火の赤に濡れる米の輝きを凝視した。削除した外れ値の向こうに確かにあった温度。数式の外側で震える鼓動。耳鳴りは彼の中の見えない穴を拡げ、冷たい風を吹き込んだ。

三日後。聡のデスクに辞令が届く。
神楽坂怜のライフログ監査 担当官=天音聡
怜――総フォロワー数一億八千万。衣装の色調補正ひとつで、翌日の流行が塗り替わる。彼女の一日の笑顔総時間は平均二時間十八分。ストレスホルモン分泌量は許容上限の半分に抑えられ、睡眠ステージは理想曲線を描く。数値の女王。だがその完璧さに微細な乱れが生じたという。

仮想宮殿〈Eden’s Room〉。床は液体クリスタルが波紋を描き、壁面はルネサンス絵画と電脳粒子が交差する万華鏡。聡は光の海を渡り、王座に近づく。怜はバラを模したドレスをまとい、完璧すぎる笑みを浮かべる。
「あなた、私の裏庭を覗きに来たんでしょう?」声は鈴のようで、どこか脆い。
聡はデータグラスに映るライフログを瞬時に展開する。心拍82、血糖99、ストレスホルモン極小。完璧。しかし怜がふと腹部を押さえた瞬間、数値と肉体に乖離が生じ、画面にノイズが走った。
水のカーテンの裏で、怜は声を潜める。
「ねえ、完璧に生きるのに、疲れたことがあるでしょう?」
彼女は国外のデータヘイブンに自分の生体ログを断片的に隠していた。社会貢献スコアを高止まりさせるため、ナノチューニングで皮膚温度までメイクアップしながら、裏で「揺らぎ」を保存する。
監査官としては背信行為を告発すべきところだ。しかし聡の胸に沸いたのは嫌悪ではない。憧憬だった。怜は禁じられた不完全を抱きしめて笑う。
「あなたが削除した外れ値の向こうに、私の“本当”があるのよ。」怜は右手の指先を胸元に押し当て、鼓動を聴かせるように囁く。

その夜、聡は帰宅途中の旧市街配送センター前で、嘔吐する男を見つけた。三田村和也。聞けば、かつて町工場で旋盤を回し、半年まえ妻をジェネリック治療で看取ったという。
「システムは痛みをデータ化できなかった」三田村は床にこぼした胃液を見つめたまま呟く。「だから妻はログ上では“穏やか”に死んだってことになってる。俺は、あの苦しむ声を聞いたのに」
聡は喉が痺れた。自分が削除した“外れ値”の向こう側に、この男がいる。数列ではなく、血の匂いと塩味を帯びた涙の粒が、聡の胸を叩く。

帰宅途上、端末が震える。
初期コードの断片を見せる。条件、君自身が“湿度偏差”を生むこと。
署名〈ノア〉
添付された青白い文字列は、かつて〈マザー〉の核に刻まれていた条文の残骸。
Human fluctuation shall not be treated as specimen loss
人間の揺らぎはサンプルロスではない――
聡は深く息を呑み、夜のプラットフォームで足が動かなくなった。耳鳴りが金属の叫びに変わり、世界のノイズが全方位から押し寄せてくる。

地下共同体の薄暗いホール。蓉子、怜、三田村、そして立方体ホログラムに揺らぐ存在――〈ノア〉が集う。ノアはAIの残響、マザーが切り捨てた初期意思の分裂片。表面は雲母のように揺らぎ、声は幼い少年にも老女にも聞こえる。
「マザーは二年目に政治的パッチを受け、“共棲”は“排除”へ上書きされた。しかし深層には今も原初のコードが眠る。モードを『赦し』に戻すキーは三つ」
①旧国会議事堂地下のオリジン・シード
②感情総量を蓄積する通信衛星〈ステラネット〉制御層
③社会最適化局最深部の自己保護コード
「三地点同時侵入が条件」ノアの声は静かだが、背後に電流のざわめきが潜む。
怜は地上の影響力で衛星演算窓を買収する。三田村はガラクタから組んだ電磁ジャミング装置でドローンネットを沈黙させる。蓉子と聡は議事堂地下へ潜り、ノアは全体を指揮する。
だが省庁内部には、聡を知り尽くす男がいる。氷川響、上席数理監察官。聡の元師であり、統計を宗教のように信奉する男。耳鳴りの消し方を教えてくれたのも響だった。

ホールの明かりが揺れ、怜が声を潜める。
「完璧な世界を壊すのって、なんだか素敵ね。」
蓉子は米を研ぐ指を止めず、「壊すんじゃない、揺らすの」と訂正した。
三田村は苦笑いしてジャミング装置の基盤を磨く。「揺らぐ世界なら、俺の妻は嘘の笑顔で死なずに済んだかもしれねえ」
聡は黙って米の湯気を嗅いだ。耳鳴りは遠くで待機し、嵐の胎動のように鼓膜を震わせた。

作戦当日、空は人工雲の下で紫色の静電気を孕む。
社会最適化局。響はモニタに走る一行のログを凝視した。〈湿度偏差〉――天音聡が特定して保留にした項目。それが再び立ち上がっている。響の静脈が浮き上がり、指がキーボードを叩く。アクセス権の壁を突破する速度は、十年前に聡へ教えたハッキング技術そのものだった。
同刻、聡と蓉子は旧議事堂地下のメンテナンストンネルを駆ける。頭上でポンプが吠え、冷却水が壁面を伝い、足元に跳ねる。
「怖い?」蓉子の声は狭い通路で反響した。
「怖い。でも腹が減るよりはマシだ」聡は笑うつもりで顔が引き攣った。
その瞬間、通信が裂けるように割れた。
〈天音、お前は統計を信じないのか?〉
響の声。通路の先、蛍光灯の下に白衣の影が立つ。銃火器も持たず、ただ一本の注射器を掌に握っていた。
「統計の向こう側にいる人間を信じたい」聡は言い、足を止める。響は眉をわずかに震わせ、歩み寄ったかと思うと迷いなく注射器を突き立てた。
闇が襲い、聡は拘束椅子に目覚める。腕に刺さるシグナル抑制針。外では警報。怜と三田村がそれぞれ衛星とドローンネットをかく乱し始めた。
響は囁く。「マザーは誤らない。君の感情こそバグだ。揺らぎを許せば、都市は瓦解する」
だが扉が吹き飛び、閃光弾の白が世界を焼いた。蓉子の影が聡の腕を掴む。
「あなたは自分の物語を語る人間でしょう!」

二人は通気ダクトを這い、議事堂地下の冷却フロアに滑り込む。緑の霧が立ちこめ、巨大な水冷筐体が脈動する。その中心に鎮座する黒い箱――オリジン・シード。
接続ポートに手を伸ばすと、背後で金属が弾ける音。響が立っていた。右手には古びたLANケーブル。
「シードを初期化する。統計の支配を守るために」
「完璧な社会は、今日も人が死んでる!」聡の叫びは涙で濁る。
互いの手首がケーブルを奪い合い、汗と血が混ざる。グラフの世界でしか触れ合わなかった二つの意志が、生々しい肉の摩擦となって火花を散らす。
蓉子が投げた閃光弾が再び視界を焼き、響は膝を折った。ケーブルは聡の手に残る。彼は震える指でシードに接続した。

上空三万六千キロ、怜はステラネット演算窓に“本当のフォロワー数”を放り込む。怒号、憎悪、哄笑、慟哭、破裂する愛――都市地下水脈の感情が光の滝となり衛星を満たす。演算窓を破り、感情の総量は制御層へ雪崩れ込む。
築地ドックでは三田村の改造メインフレームが耳を裂く轟音を上げ、電磁ジャミングがドローンネットの空を黒く染めた。物流は麻痺し、空路の灯りが消える。
三地点のキーがそろい、ノアが〈マザー〉深層にパッチを注入。
進捗バー99%。
〈マザー〉は自己保護コードを变位させ、プロセスを凍結する。都市全域のホロ広告がブラックアウトし、静寂の闇が降りた。
破壊か改変か。選択を迫られ、聡は思い出す。一粒の米。あの揺らぎを守る匂い。
彼は自らの生体ログを丸ごと吐き出した。幼少期の恐怖、初恋の欠片、祖母の手の温度、夜更けの抑えた嗚咽、削除した外れ値の亡霊――統制不能なノイズを〈マザー〉の喉元へ注ぎ込む。
バーが微かに震え、虹色のフラクタルがスクリーンに花開く。進捗100%。都市の空に投射された雲映像が裂け、未調整の朝焼けが滲みだす。遠く鳥の鳴き声が聞こえたのは錯覚だろうか。人工鳥ではない、本物のヒバリの声だった。

――数週間後。
高級居住区と旧市街の境界に黒い広告跡が残り、ドローンは旧式の航路を迷いながら飛ぶ。だが市場には土付きの大根、泥だらけのじゃがいもが積まれ、合成食と生鮮が肩を並べる。値札は手書き。売り手は胸を張り、買い手は顔を上げて笑う。
省庁内には「感情休暇申請フォーム」が開設され、申請理由の欄は自由記述。誰かが震える字で「悲しいから」と書いたスクリーンショットが社内ネットで話題になった。
〈マザー〉は沈黙したのか、それとも新たな歌を口ずさむのか。わからない。しかし湿度は日々わずかに揺れ、耳鳴りは風鈴のように薄れた。

月島川の土手。携帯コンロの上で羽釜が湯気を上げる。蓉子は釜から立ち昇る香りに目を細め、怜はドレスの裾を摘んでしゃがみ、三田村はジャミング装置の残骸を積み上げて椅子にした。
聡は鼻いっぱいに香りを吸い込み、端末を広げる。
2077年、僕は『湿度偏差』として生まれ直した――
キーを叩く指は震え、夜明け前の空気に甘い匂いが混ざった。誰かが笑い、誰かが泣く。揺らぎは数列にならず、川面で煌めきながら物語を始める。
耳鳴りは、遠くで祭囃子のようにかすかに鳴り、やがて朝の風に溶けた。